名物ラーメンの生みの親・
喜多方市には魅力的な資源がたくさん
日本三大ラーメンの一つ、「喜多方ラーメン」を生み出したまちとして名をはせる福島県喜多方市。実はラーメン以外にも、たくさんの魅力が詰まったまちなのです。
そんな喜多方市の環境、産業、歴史、まちづくりなどについてご紹介します。
忠義の歴史で知られる会津地方の北方(きたかた)です
喜多方市は福島県北西部にある総面積554.63平方キロメートル、人口約4万2千人の自治体(令和6年8月現在)。戊辰戦争で徳川幕府に忠義を貫いたことで知られる会津の地に位置しており、市の北部は山形・新潟の両県と接しています。会津盆地の北にあったこの地が古来「北方(きたかた)」と呼ばれていたことが、名称の由来とされています。
グルメと景観のまちを育てた雄大な自然
喜多方市は例年180万人程度の観光客が訪れる福島県内有数の行楽地。特に日本三大ラーメンの一つである喜多方ラーメンや、酒蔵を中心とした古い建造物が連なる街並みで有名です。
喜多方市では朝食にラーメンを食べる「朝ラー」が地域住民の文化として根付いており、休日にはこの「朝ラー」を目的に、早朝から市内のラーメン店に多くの観光客が行列を作ります。
喜多方ラーメンをはじめとした名物や風情あふれる蔵の街並みが生み出された要因として、豊かな自然環境が欠かせません。
なぜならラーメンや蔵元で醸造される酒、醤油、味噌は、喜多方市の北西にそびえる日本百名山のひとつ、飯豊連峰の山の伏流水の恩恵を受けてつくられているため。東北アルプスとも呼ばれる飯豊連峰の山々の地中深くに潜り、年月をかけて溶けた雪水や雨水は、「平成の名水百選」にも選ばれた清流・栂峰(つがみね)渓流水を生み出します。
栂峰渓流水をもとにした喜多方市の水道水はミネラルを豊富に含み、やわらかい口当たりとほんのりとした甘味が特徴的。もっちりとした喜多方ラーメンの多加水ちぢれ麺や風味豊かなスープ、うま味の際立つ日本酒、名物のそばをつくる上で欠かせない源になっているのです。
栂峰渓流水と酒造り職人たちの技が織りなす日本酒は絶品で、市内蔵元の日本酒は毎年のように全国新酒鑑評会で金賞を獲得するなど、非常に高い評価を得ています。
市内ではほかにも、日本で4番目の広さを誇る「猪苗代湖」を源とする一級河川の日橋川や阿賀川といった水流が通っています。豊かな水流が育む肥沃な土壌によって、全国的にも人気の高い良質な農産物も生産されています。
季節を通して風光明媚なパノラマがたのしめる
飯豊連峰や清流のほかにも、喜多方市周辺には自然を満喫できるスポットがたくさんあります。名峰磐梯山の頂を望む雄国山や、国の天然記念物に指定される植物群落を抱える雄国沼湿原へのアクセス環境も良好。市内には、ニッコウキスゲなどさまざまな高山植物を観賞できるスポットがあります。
また、旧国鉄日中線跡地に約3キロにわたり約千本のシダレザクラが植樹された「日中線記念自転車歩行者道のしだれ桜並木」、東北最大規模のひまわり畑や菜の花畑に多くの観光客が訪れる「三ノ倉高原」、熱塩加納町に残る市の花・「ヒメサユリの群生地」など、季節を通して美しい花や景色がたのしめるエリアがたくさんあります。
このような豊かな自然を保全したり、植物の育つ環境を整えたる取り組みが、各地で積極的に行われています。 特に観光面では、「花でもてなす喜多方」をキャッチフレーズに多彩な花々をおもてなしの資源としてPRする動きが活発になっています。
培われた第1・2次産業の力
喜多方市では将来の都市像として、「力強い産業 人が輝く 活力満ちる安心・快適なまち」を掲げています。
「力強い産業」の代表としては、農業や製造業が挙げられます。先に述べた通り、喜多方市は豊富で良質な水と肥沃な土壌に恵まれています。そして、冬には深くて3メートルの積雪があり「寒い地域」というイメージを持たれがちですが、実は季節や時間帯による寒暖の差も大きいのです。このような地の利、水の利、気候を生かし、高品質な農産物を生産し続けてきました。
市内農業産出額の7割を占める米は、全国の食味ランキングで最高水準の「特A」の評価を獲得するなど、高品質のお米として人気です。
このほか、東北地方有数の生産量を誇るグリーンアスパラガス、夏秋キュウリ・トマト、チェリートマトも、全国の消費者から高い評価を得ている作物です。
また、トルコギキョウ、リンドウなど花卉類やブランド牛「ふくしま会津牛」の食肉も、人気の高い産品です。
市内では有機栽培や化学農薬・肥料を抑えた、環境に配慮した栽培法も進んでいます。特に東日本大震災に起因する、東京電力福島第一原子力発電所事故以来、農産物の安全性の周知を徹底。また、有機栽培を推進するため、今年5月には、会津地方で初めてオーガニックビレッジを宣言しています。
さらに風評被害の払しょくや、喜多方産作物の新たなファン層拡大を図るため、近隣自治体と農協で連携して首都圏・関西圏などでトップセールスを展開。米を中心に、喜多方産品を積極的に販売する店舗「きたかた食のパートナーショップ」といった、首都圏を中心とした遠方の事業者とも協力体制を築いています。
そして喜多方市は、ものづくりのまちとしても有名です。昭和40年ごろまでは農業が地場産業を支えていましたが、高度成長の流れなどにより製造業に就く人口が増加。市内の産業別就業人口は、製造業が21.2%と、最も高い数値を示しています(令和2年国勢調査)。
特にアルミニウム製品の製造は、喜多方の産業を支える大黒柱となってきました。市内には80年以上の歴史を持つ「レゾナック(旧昭和電工)喜多方事業所」、HONDAのピストンメーカーとして1975年にスタートした「本田金属技術喜多方工場」の2大事業所が立地。自動車や産業機械の部材として、幅広い分野に活用される製品を生み出しています。
このように喜多方市の経済は、企業城下町として発展した歴史によっても支えられているのです。ほかにも先端テクノロジーを導入した繊維業・エネルギー産業、電子工業など、市内ではさまざまなものづくりに携わる事業所がひしめき合い、地元経済をけん引しています。
こうした、農産物や工業製品は喜多方市のふるさと納税返礼品にも採用されており、喜多方市を応援する方からも好評の声が寄せられています。
地場産業支えた先人たちの治世
会津地域の治世者として、近江出生の戦国武将・蒲生氏郷や会津松平家の祖・保科正之が有名です。実は、喜多方地方に今も残る産業には、これらの先人たちの統治と切り離せない側面があります。
蒲生氏郷は天正18年に豊臣秀吉の命により会津に入封し、城下町を整備。文化人としても才能を発揮し、会津地方の産業・文化の礎を築きました。
氏郷の統治期には近江の職人が多数会津に入り、伝統工芸に関する技が領民に伝授されました。結果、農業の仕事がなくなる冬の間に取り組める副業として、漆芸などの工芸が盛んに。
喜多方市内でも学校給食に地場産の漆を使った塗椀が使われるなど、現在に至るまで漆芸は地域の誇る産業となっています。
江戸時代初期に会津藩主となった保科正之も、産業奨励や新田開発に力を入れました。その結果、会津では、国内農学史上でも優れた指導書として知られる「会津農書」が生み出されるなど、農業の技術教育が浸透しました。
喜多方市も平成18年に農業教育特区の認定を受け、全国で初となる「小学校農業科」を導入するなど、現代に至るまで農業教育の実績をあげています。
統治者の指導によって産業振興が図られる中、江戸時代の喜多方地方は城下町を支える経済的拠点の役割を果たしました。定期市が催されるなどにぎわいを見せ、物資を運ぶ街道や河川舟運の航路も整備されました。
明治以降も、酒・味噌などの醸造業や木工業などが発展。現在でも喜多方は、会津地方有数の商圏を形成するエリアとして知られています。
活力あるまちに欠かせない人づくりのカギも、歴史にあり
喜多方市内ではこのほかにも、先人たちの教えや功績を市民生活や政策に生かす動きがみられます。
喜多方市は「まちづくりは人づくりから」の理念を掲げています。そして、人材育成の手段として、郷土の偉人や歴史・文化に学ぶ機会を積極的に設けることが薦められています。そのため市民の財産として、これからのまちづくりの礎として、先人たちの偉業の伝承が図られているのです。
喜多方出身の有名人としては、戊辰戦争で敵・味方を分け隔てずに負傷を看護し、「日本のナイチンゲール」とも讃えられる功績を遺した慈善事業家の瓜生岩子(うりゅう いわこ)
社会教育の先駆者で、現在もボランティアや社員教育活動を行う民間団体「修養団」を設立した蓮沼門三(はすぬま もんぞう)が挙げられます。
また、喜多方は日本の陽明学の始祖と言われる中江藤樹の教えが盛んに学ばれた地としても知られています。道徳を身につけ父母や周囲に孝を尽くすことなどを説いた藤樹の教えは「会津藤樹学」として、領民に広く普及しました。
藤樹学の精神や先人の教えは、現代の政策作成の場でも大いに尊重されています。例として、個性豊かな人間の創造などを期待して努力目標を盛り込み、平成23年に策定された「喜多方市人づくりの指針」が挙げられます。
現在でも喜多方市では、郷土の歩んできた道や学びを踏まえた上で、多くの人を惹きつける活力あるまちづくりが進められています。